昭和時代の歌姫、「人形の家」という歌で日本レコード大賞の歌唱賞を受賞するほどの名歌手、弘田三枝子さん。
そんな弘田三枝子さんの結婚やお子さんのことについて、まとめてみました!
目次
弘田三枝子について
まずは弘田三枝子さんのプロフィールから見ていきましょう。
本名:高木 三枝子
生年月日:1947年2月5日(72歳)
血液型 A型
出身地:東京都世田谷区池尻
ジャンル J-POP
職業 歌手
担当楽器 歌
活動期間 1961年~
幼少の頃より、群を抜いて歌が上手かった弘田三枝子さん。
子ども時代から、人前で歌うことも度々あったようです。
小学生時代の7歳から立川市などの進駐軍のキャンプでジャズやポピュラーなどを歌っていた。ハワイアンをやっていた兄からの助言と童謡と英語を先生について習った。
その当時同じ立川で同じように歌っていた少女が伊東ゆかりであり、弘田は「あの子はどんな歌手になるのだろう」と幼心に思ったとのちに語っている。
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伊東ゆかりさんもまた、あの当時の歌姫ですよね!
弘田三枝子のデビューについて
1961年に東芝音楽工業から、「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー、14歳。
翌年には各社競作で出された「ヴァケィション」(コニー・フランシスのカバー)が大ヒットを記録する。
村田久夫は「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出したのは弘田三枝子」と論じている。
なんだかとても天才的な少女だったようですね!
レコード大賞受賞
1969年、「人形の家」で第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。このときのレコード対象の影響力はトップクラスでしたからね。
歌手人生として不動の地位を獲得したようなものです。
歌唱力は折り紙つきだったということですね!
レコード大賞の歌唱賞とはすごい…!!
弘田三枝子の結婚について
弘田三枝子さんの場合、結婚について書く前に、重大な事件について先に記しておく必要がありそうです…!
不倫していた
1970年代中頃、弘田三枝子さんは妻子ある男性と不倫の関係になっていたそうです。
不倫相手からは、妻と別れて結婚の約束もしていたそうですね。不倫相手の妻からも再三の別れる様に懇願されていたそうですが、弘田三枝子さんも本気だった為、全く取り合わなかったそうです。
そんな時に、弘田三枝子さんが妻から果物ナイフで、背中を数回刺されるといった障害事件に発展しました。
幸い命の別状は無かったそうです。
その後、不倫相手とは別れて芸能界も一旦引退して渡米しました。
ほとぼりが冷めるまでという感じでしょうか。
不倫していたとは!
そして、不倫相手の妻に刺される!?
A子が果物ナイフを持って弘田三枝子さんの住むマンションに行ったのは午前4時20分…その時の気温は0度でした。
寒さに震えながら物陰で40分以上も待ち続け、5時過ぎにSと一緒にタクシーから降りてきた弘田三枝子さんの背中を果物ナイフで3回、立て続けに刺したのです。
傷の深さは1~1.5センチほど…
刃先がもう少し深く入っていれば、腎臓に達する恐れもありましたが、幸い急所は外れて、数日の入院で済んだのでした。
弘田三枝子さんとSが仕事を通じて知り合ったのは1975年1月…
次第に男女の仲になっていき、その年の夏頃からはしばしば家を空けるようになりました。同年のクリスマスも自宅に戻らず弘田三枝子さんの家に泊まっていたのです。
当時、A子は妊娠5カ月、5歳になる長女もいました。
我慢の糸が切れたA子は弘田三枝子さんの家に電話をかけ「夫と別れて!」と叫んだのです。
その時、弘田三枝子さんは「きちんと別れます」と答えたのですが、男と女の関係は摩訶不思議…これがきっかけで、逆にSさんと弘田三枝子さんは、より親密になっていったのです。
1976年5月、A子は2人目の子供を産みましたが、夫はますます家に帰らなくなります…
ジャズグループを結成し、弘田三枝子さんのバックバンドを務めるなど2人の関係は深まるばかりでした。
1977年1月7日、Sは「必ず妻と離婚する」と話して弘田三枝子さんにプロポーズ…
そうした動きを察したA子は意を決し、同月15日、夫の不倫相手と直談判に及ぼうとするが、弘田三枝子さんは拒否され、10日後、ついに凶行に及んだというわけです。
まるでドラマか映画か、というような展開ですね!情熱的な女性にばかりモテる男性だったのでしょうか。
渡米後については、こんな情報も…
さらなる不倫、そして結婚
1978年1月、弘田は航空会社の営業部長T氏(日本人)と知り合う。
同年5月、プロポーズを受けるが、当時、T氏には4番目の妻と3人の子どもがいた。正式に離婚が成立しないまま、9月に挙式。
すでに弘田のお腹には愛の結晶が宿っていた。
「T氏は営業で売り上げ全米トップをとるほどのヤリ手でしたが、一方でかなりのプレーボーイと評判だった。
1979年2月に娘が生まれて間もなく、弘田はこのT氏と別れて、日本に戻ってくるんです」
結婚したとはいえ、まだ相手の男性は独身ではない状態…。挙式はしても、籍は入れずに事実婚だったということなのでしょうか。
しかし、娘さん出産後、すぐに別れて帰国されたんですね。
弘田三枝子の娘・えりかについて
娘さんのことについて調べてみましたが、やはりほとんど情報はなく。
お名前がえりかさん、ということも定かではなさそうですね。
1979年2月に生まれた娘さんとのことなので、現在は30代後半あたりでしょうか。
きっと、弘田三枝子さんのように美しいお嬢さんなのでしょうね。
弘田三枝子の顔面崩壊してしまった現在の写真
こ、これは…
顔面崩壊というか、昔一世風靡?した鈴木その子のよう…
整形でもしてしまったのでしょうか?
弘田三枝子さんは、容姿に興味があり、自らダイエット本である「ミコのカロリーBOOK」を出版しています。
当時、ダイエット本は珍しく、150万部を超える大ベストセラーとなったそうです。
そしてファッションやビューティーにも関心を持ち1970年度のベストドレッサー賞を受賞しています。
そんな弘田三枝子さんは\、独特のヘアスタイルや衣装、メイクで当時のファッションリーダー的存在でもあったそうです。
この頃から弘田三枝子さんの美容整形が始まりました。
顔も体も丸みを帯びたぽっちゃり体型で、あどけない表情で可愛らしさがありましたが、ダイエットでスッキリ細くなり、美容整形で鼻筋は高く、目はパッチリ二重まぶたとなり徐々に西洋風な顔に変わっていきました。
「人形の家」の頃の弘田三枝子さんはすでに整形していたのかもしれませんが、当時の雰囲気はブリジットバルドーのような、目鼻立ちのはっきりした外国人のように見えていましたが…
弘田三枝子さんは年齢を重ねていらっしゃいますが、メイクも整形もほどほどで十分お綺麗なんじゃないかと思いますけどね。
一度整形に手を出すと、どんどんやめられなくなってしまうものなのでしょうか。