【遺産はいくら?】デヴィ夫人の旦那・スカルノ大統領の正妻は4人!子供は美人な娘が一人。

今回は、デヴィ夫人の旦那さんはインドネシアのスカルノ大統領なんです。

2人の馴れ初めやスカルノさんの活動に迫ります。

デヴィ夫人の旦那は大統領!

デヴィ夫人の旦那さんは、インドネシア共和国の初代大統領スカルノ大統領です。

スカルノ大統領は残念ながら、1970年6月21日に69歳で亡くなっています。

インドネシアに渡って数年は愛人の1人だったのですが、スカルノ大統領は彼女の真面目な勤勉さに惚れ込み、1962年(昭和37年)にデヴィ夫人さんと正式に結婚。4人の夫人のうちの第3夫人になりました。

当時、スカルノ大統領は58歳、デヴィ夫人は22歳という若さでした。

スカルノ大統領さんには、いったい何人の愛人がいたのでしょうかね(笑)

 

馴れ初め

2人はどこに出会ったのかについては、2つの説があります。

  • デヴィ夫人がまだ東京・赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」にホステスとして勤めていた頃、インドネシアと巨大ビジネスをしていた貿易会社・東日貿易の久保正雄社長が500万円と都心の一等地100坪を交換条件に、スカルノ大統領にデヴィ夫人(=本名・根本七保子)を紹介した
  • 19歳の時に、友達と映画を見るたねに、デヴィ夫人が帝国ホテル横にあるレストランで待ち合わせしていたところ、スカルノ大統領ご一行がそばを通り、しばらくしたのち、副官から「もしよろしかったら、私達もお茶会をしてますから、いらっしゃいませんか」と誘われ、その2日後に会い、やがて文通が始まった

どちらの説が真実なのかを言うと、後者だと思われます。というのも、本人がそう公言しているからです。最初の出会いから3年後、二人は結婚することになります。

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プロポーズの言葉は、「私の人生の喜びになってほしい」でした。手紙でも話してても、スカルノ大統領はものすごくロマンチストで、そこにデヴィ夫人はコロッといったそうですね。

 

悲しい死別

1970年6月21日、首都ジャカルタでスカルノ大統領が亡くなります。

死因は病気で、腎機能が低下する「腎虚(いわゆる老化)」とのことです。

2人の結婚生活はわずかに8年でした。

 

スカルノ大統領死去に伴い、デヴィ夫人にはインドネシア政府から第三夫人として遺産分与がなされたと言われています。やはり、かなりの金額をもらったのでしょうか。正直、気になりますね(;^ω^)

 

デヴィ夫人と旦那との子供は娘が一人


出典:https://ameblo.jp/dewisukarno/image-12651889211-14884399956.html

1967年3月11日、デヴィ夫人が25歳の時、東京で長女「カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ」を授かります。スカルノ大統領にとっては、8人目の子供にあたるそう。

1965年9月30日にクーデターが勃発し、スカルノ大統領は国のトップの座を追われることになりました。そのクーデター中に生まれたのが「カリナ」さんでした。

出産後はインドネシアに帰ることなく、フランスに亡命しました。そして、当時11歳の娘をフランスに残して、一人でインドネシアへ、これから娘を育てるために遺産分与の交渉に向かったのです。

が、この行動がまだ小さい娘さんには理解ができなかったそうで、「私はお母さんに捨てられた」と親子の確執となってしまいました。しかし、やがてこの行動は若い頃にお金に苦労したデヴィ夫人の「娘にはお金で苦労をかけたくない」という親心であったことを理解し現在、親子仲は良好のようです。

スカルノ大統領はクーデター後、すべての役職を奪われ、事実上の軟禁状態だったことから、デヴィ夫人にも自身の娘にも一度も会うことはなかったようです。

 

カリナさんはフランスで育ったために、日本語をしゃべることができないようです。ボストンの大学に進学し、オランダ人のフレッツ・フレデリック・ゼーガースという外資系大手銀行「シティバンクヨーロッパ」のCEOを務め、その後もアメリカのバークレイズ銀行に勤めるなど超エリートな経歴を持つ資産家と結婚しました。

フレッツさんにとっては、二度目の結婚でした。彼には、計2人の息子さんがいらっしゃいます。一人はカリナさんとの間にできた子供ですので、もう一人は前妻との間に出来た子供でしょう。ちなみに、前妻の詳細はわかっていません。

当時、カリナさんは38歳、フレッツさんは45歳でした。フレッツ氏は1959年生まれですから、カリナさんとは8歳違い。

カリナさんはロンドンで暮らしています。

二人の馴れ初めはわかっていません、2004年頃にカリナさんがニューヨークのヴィヴィアンウエストウッドで働いており、お店で出会ったと一部で言われていますが、真相は不明です。


出典:https://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12273075032.html

やがて二人は、長男「キラン」君を授かります。

デヴィ夫人からすれば、孫ですね!

むちゃくちゃイケメンですよね!

 

現在も家族仲睦まじく暮らしているのかと思いきや、2021年2月3日、フレッツさんはインドネシア・バリ島で急逝されました。62歳でした。

死因は、インスリンショックによる心肺停止。悲しいですね。。

 

スカルノ大統領の活動

スカルノ大統領は1901年6月6日、オランダ領東インド スラバヤに生まれました。幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業。

その後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校に入学し1921年に卒業。

植民地の宗主国オランダが1920年にバンドンに創設した高等工業学校に入学し、1926年5月に卒業しています。

スカルノ大統領の幼少期の顔画像がコチラ。

凄い顔が整ってますね^^

モハマッド・ハッタさんとともにオランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノさんは大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始。

1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともに、インドネシア国民党を結成するのです。

大学卒業してから反植民地運動を開始するって、ものすごい行動力ですね!

 

その後、スカルノさんはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了。徐々に、「民族の指導者」として認められていきます。

1943年にはモハマッド・ハッタさんとともに日本に招かれ、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、独立への理解が高い日本の協力を得る形での将来のインドネシア独立への道筋を作っていったのでした。

ここで日本との関係が深まったのですね。

 

そして、1945年8月14日、日本の敗戦が決まると、スカルノ大統領はインドネシアの独立を宣言。しばらく、オランダ軍の攻撃は続きましたが、無事、主権を取り戻しました。

インドネシアにおけるスカルノ大統領の功績は目覚ましいものがあります。愛人はたくさんいたものの、デヴィ夫人にとってかけがえのないパートナーだったのではないでしょうか。

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