今回は、デヴィ夫人の旦那さんはインドネシアのスカルノ大統領なんです。
2人の馴れ初めやスカルノさんの活動に迫ります。
デヴィ夫人の旦那は大統領!
デヴィ夫人の旦那さんは、インドネシア共和国の初代大統領スカルノ大統領です。
スカルノ大統領は残念ながら、1970年に69歳で亡くなっています。
インドネシアに渡って数年は愛人の1人だったのですが、スカルノ大統領は彼女の真面目な勤勉さに惚れ込み、1962年(昭和37年)にデヴィ夫人さんと正式に結婚。4人の夫人のうちの第3夫人になりました。
当時、スカルノ大統領は58歳、デヴィ夫人は19歳という若さでした。
スカルノ大統領さんには、いったい何人の愛人がいたのでしょうかね(笑)
馴れ初め
2人はどこに出会ったのかについては、2つの説があります。
- デヴィ夫人がまだ東京・赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」にホステスとして勤めていた頃、インドネシアと巨大ビジネスをしていた貿易会社・東日貿易の久保正雄社長が500万円と都心の一等地100坪を交換条件に、スカルノ大統領にデヴィ夫人(=本名・根本七保子)を紹介した
- 19歳の時に、友達と映画を見るたねに、デヴィ夫人が帝国ホテル横にあるレストランで待ち合わせしていたところ、スカルノ大統領ご一行がそばを通り、しばらくしたのち、副官から「もしよろしかったら、私達もお茶会をしてますから、いらっしゃいませんか」と誘われた
どちらの説が真実なのかはわかりませんが、最初の出会いから3年後、二人は結婚することになります。
プロポーズの言葉は、「私の人生の喜びになってほしい」でした。手紙でも話してても、スカルノ大統領はものすごくロマンチストで、そこにデヴィ夫人はコロッといったそうですね。
悲しい死別
1970年6月21日、首都ジャカルタでスカルノ大統領が亡くなります。
2人の結婚生活はわずかに8年でした。
子供は娘一人
出典:https://ameblo.jp/dewisukarno/image-12651889211-14884399956.html
1967年、デヴィ夫人が25歳の時、長女「カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ」を授かります。スカルノ大統領にとっては、8人目の子供にあたるそう。
1965年9月30日にクーデターが勃発し、スカルノ大統領は国のトップの座を追われることになりました。そのクーデター中に生まれたのが「カリナ」さんでした。
出産後は、インドネシアに帰ることなく、フランスに亡命しました。
スカルノ大統領はクーデター後、すべての役職を奪われ、事実上の軟禁状態だったことから、デヴィ夫人にも自身の娘にも一度も会うことはなかったようです。
カリナさんはフランスで育ったために、日本語をしゃべることができないようです。ボストンの大学に進学し、38歳でオランダ人のフレッツ・フレデリック・ゼーガースという資産家と結婚しました。
フレッツ氏は1959年生まれですから、カリナさんとは8歳違い。
出典:https://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12273075032.html
やがて二人は、長男「キラン」君を授かります。
むちゃくちゃイケメンですよね!
スカルノ大統領の活動
スカルノ大統領は1901年6月6日、オランダ領東インド スラバヤに生まれました。幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業。
その後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校に入学し1921年に卒業。
植民地の宗主国オランダが1920年にバンドンに創設した高等工業学校に入学し、1926年5月に卒業しています。
スカルノ大統領の幼少期の顔画像がコチラ。
凄い顔が整ってますね^^
モハマッド・ハッタさんとともにオランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノさんは大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始。
1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともに、インドネシア国民党を結成するのです。
大学卒業してから反植民地運動を開始するって、ものすごい行動力ですね!
その後、スカルノさんはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了。徐々に、「民族の指導者」として認められていきます。
1943年にはモハマッド・ハッタさんとともに日本に招かれ、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、独立への理解が高い日本の協力を得る形での将来のインドネシア独立への道筋を作っていったのでした。
ここで日本との関係が深まったのですね。
そして、1945年8月14日、日本の敗戦が決まると、スカルノ大統領はインドネシアの独立を宣言。しばらく、オランダ軍の攻撃は続きましたが、無事、主権を取り戻しました。
インドネシアにおけるスカルノ大統領の功績は目覚ましいものがあります。愛人はたくさんいたものの、デヴィ夫人にとってかけがえのないパートナーだったのではないでしょうか。
死因は病気で、腎機能が低下する「腎虚(いわゆる老化)」とのことです。